12.21.2011

意図せざるもの







































パッションそれは受苦である。 受ける、受動するといった意味にも拡張される。


たしかにパッション屋良は、自らの痛みによって笑いとしての共感を生み出した。それは笑いの極限である。


パッションは受苦であるが、コンパッションは共感である。


共通感覚とは、その反省において他のすべての人々のこおとを顧慮する能力であり、他者の立場に自己を置く能力(カント)であってみれば、共感や共苦としての痛みや受苦の問題は、ほとんど共通感覚の問題と相接している。 と中村雄二郎は言う。


つまり体を張って笑いをとる、という捨て身のスタイルは決して虐待などではなく、受苦のシュミレーションもしくは受苦そのもののゴールデンタイムでの演劇として伝達する 創世以来の伝統芸なのである。


アホだね

10.27.2011

それは倫理の問題

日光東照宮をいかものと呼び、建築の堕落の極致と呼んだのはブルーノ•タウトであった。彼は一方、桂離宮を東洋のパルテノンと絶讃した。それは、それでよいのである。ただ、著名な異邦人の評価によって私たちの遺産の株価のように、上昇したり下降したりしてしまうこの国の文化的風土が問題として残るだけなのである。

住宅論/装飾空間のための覚え書き 篠原一男より

これを装飾をめぐるグローバルの端緒と見ずしてなんと呼ぶ。今更ながら、ロースと篠原とレムにほれぼれしている。

10.26.2011

OOIIOIOXHXOIOIIOO



























装飾は罪悪か?最悪か?
じゃあ罪悪って何だ今の時代。倫理感を定義付けできなくなった今、世紀末ウィーンと比較してもよりシビアに診断していかなくてはならない。
これは自明だ。まずそれからだ言い切るのは。

戻るべきは身体か?深退化?
自然を含め共感覚を誘うような「感じ」が良しとされている暗黙のグレーゾーン。上の犯罪ではないが、これも原点設定するにはとても危うい。
まず観察者は誰だ。我々は身体を共有しているのか。

では時代はグローバルか?ネイションか?
まずそもそも両者の原義が怪しい、そこでより怪しい二つを変わりに対峙してみる。これは言うなれば建築が語る事を恐れるダークサイドでもある。

経済か?神話か?
世界は昔つながっていたんだろうか?もともと交流的性格を持っていたんだろうか?
両者はその始源を共有している。実態がないという事に関して。
神の見えざる手とは巧く言ったもんだ。今頃トレーダー達は自分の手に脳に神を見ているんだろうか。

更にアイコンと文様として考えると少し分かりやすくなる。
我々は文様の奥にロマンを見、アイコンの奥に空洞をみる。
ロマンとは空洞の事なんだろうか。

装飾を断罪し、世界をジャンクスペースの固まりとして認識したあと
世界が本当のジャンクスペースと装飾の波に飲まれた今。

私は何をしよう。
基準の提示と散文による世界小説を前提として、私はつぶやくことしかできないのか。

無力を感じている。
でも背中に着けたツインターボのエンジンを一瞥し、それでも足をつけて頑張ろう。

あ、これ論文の話ね。


10.24.2011

Ornament =


















最終的にどうなるか 、何となくいろいろな事がつかめて来たような感じ
実際そうでないにしても、いつからでしょうね。そんな感じが何となく出て来たのは。
元来「なんか外側から見てるくそ生意気」なボーイだったわけですが、今もそれは変わらずで。
ベンヤミンとかに痛く感動しながら、気づけばもうこんな歳。ベンヤミンってきっとひどくお金持ちだったんだろう。

論文の作業をしていると、なぜかいろいろな事を知って行っているのに結局はここに行くんだなってポイントが見えてくる。
スタンスとして無謀にも果敢にも、「面白そう」だけを頼りに今まで散々当たり散らして来たから今回もそうやってやるつもりだ。
そうでないと、周りの人にも申し訳ないとなんか思う。
そしてそれに結果を合わせて行くところが難しく、今の目標である。
僕は計り知れない人たちにお世話になっているわけで、その人たち一人一人に「ありがとう」といいながら飲み歩いていると
それだけで人生という時間とお金を使い果たしてしまいそうな勢いだ。
だから僕は「結果」を持ってお知らせするという、結構あたりまえで手っ取り早い方法に向けて頑張ってます。

論文の作業とはとても根気のいるものだ、「面白くない」事もいっぱいある。
でも僕が書きたいのは「面白い」ものだ、それが原動力でもあり目標である。
タイトルは「世界の模様」で確定である。
主査も副査もHY,HH,MHとみなHが入る人、ちなみに僕もSHという変な綾を感じながら
模様•文様論を通じた世界認識方法の一視点を喝破して行こうと思う。
イームズの映像作品「Powers of Ten」の中で、両極限の景色が一緒だと言うことを唯一の原風景として依拠しながら。
論文ってこうゆうものなんだよねっていう事も知っているけど、そこは何かに甘えさせてもらってます。


10.11.2011

where is the destination?




















いや、報告遅れましたが帰ってきました日本
以外と見られてるんだなこれ、というのを当人自覚しておらずこんなに遅くなってしまいました。

ただいま。
スイスEPFLへの一年の留学を経て、帰って芝浦の修士卒業の為にやるべき事をしています。
しばらく周りとの間合いに悩みを感じていましたが今は素直に頑張っています。
帰って来て大きなどーんっていう事はなかったですが、引き続き頑張っています。
ただこうやって引き続き頑張れる環境に、周りに多大な感謝をしています。



自分に何が出来るか見極める時期。
周りの頑張ってる人、日本の環境に鼓舞されています。
引き続き ポンコツですが。



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ここからは別ですが、今週の土曜に東京湾の上でDJします。
個人的に楽しみなイベントなので、告知します。
予約いただければ、確実に乗れるんで 何かしらで連絡ください。



■JICOO The Floating Bar (ジクー フローティング バー)
毎週木曜日、金曜日、土曜日に現れる船上バー。
日の出桟橋~お台場海浜公園を30分毎に行き来しており、
船内では、海抜0メートルの動く東京湾の夜景と、
様々なアーティストによるエンターテインメントショーがお楽しみいただけます。
http://www.jicoofloatingbar.com/
http://youtu.be/HuJUFx6SK1M



- JICOO The Floating Bar -
2011.10.15 Sat 18:30~23:00 ※通常と営業時間が異なります

- Guest DJ -
矢部 直(United Future Organization)
中村 智昭(MUSICAANOSSA / Bar Music)
大塚 広子(CHAMP,Key Of Life+)
関 佳彦(Urban Smooth Lounge)
堀木 俊

- Host DJ -
中島 健吾(JAZZROOM)


■Bording time(どの時間からでもご乗船いただけます)
*日の出桟橋発着所  19:00 20:00 21:00 22:00
*お台場海浜公園発着所  20:30 21:30 22:30
※お台場海浜公園発着所からの最初の出港は20:30となります(19:30の着岸はございません)
※最終便は23:00に日の出桟橋帰港となります

■Charge
floating pass 2,500円
フローティングパスは船から降りない限り乗り放題です。料金には乗船料とエンターテインメント料が含まれます。

■Access
*日の出桟橋発着所
・JR山手線・京浜東北線 浜松町駅南口から徒歩10分。
南口改札口から東芝ビル方面へ進み、日の出桟橋出口を出て、海岸通りを横断し右折した左となります。
・臨海新交通ゆりかもめ 日の出駅から徒歩3分
・都営大江戸線・浅草線 大門駅から徒歩15分

*お台場海浜公園発着所
臨海新交通ゆりかもめ お台場海浜公園駅・台場駅から徒歩5分。
※お台場海浜公園発着所にはJICOO The Floating Barのご案内、受付等を出しておりません。出港時刻の10分程前に船員が発着所のゲートを空けに参ります。

■Attention
※船は定刻で出港します。出港時刻の20分前には発着所にお越し下さい。
※全席自由席となります。(お席のご予約は行っておりません)
※アルコールを販売しているため、ドライバーの方や20歳未満の方はご乗船できません。
※ドレスコードがございます。男性のサンダルやショートパンツでのご入店をご遠慮いただいております。
※台風等の悪天候時や機関点検等で、営業を取りやめる場合がございます。
いる。


8.06.2011

La femme d'apparence douce





























地域主義の為の建築だとは感じなかったが、一件剥離した内外が結構的に依存し合ってる様子は新しい事を考えさせられるきっかけだった。
Bagsværd Church / Jørn Oberg Utzon, Bagsværd, Denmark 1962-1976

8.03.2011

L'occasion d'un grand maître


























全ての話は常に話として語られるけど、実際に足を踏み入れてみるとそれは全く違った話だという事を分かる事が出来る。
La Maison Blanche / Charles-Edouard Jeanneret-Gris, La Chaux-de-Fonds 1912






































8.01.2011

l'époque d'archi




























残り90%のデザイン

最近頭に残っている「Small Scale, Big Change」の巻頭の文章。
毎回校買の本棚で立ち読みして、こんだけ見てるんだったら買えよって思うんだが買わない。
それは内容が買わないを選択させるからで、小さな街づくりスケールのもの土着的な復興のプロジェクトなんかが載っている。
僕は(もしかしたら私たち)はそれらを知る事は出来るが、信じる事が出来る地点にはいない。
つまり例外だと言う事で、それら例外と戦って行くのがこれからの世界である。

篠原雅武の「空間のために -偏在化するスラム的世界のなかで-」を読んだ人はいるだろうか。
アーレントやルフェーブルの空間論ににわか興味を持った頃に会った著者の名前が論文系のリサーチの中でよぎって、辿ったら新刊が出ていた。是非読んでと言いたいところだが、やはりこの手の事は周りが分からないと分からない。
僕は完全にこれをアテネの都市状況と重ねて読んだ。震災後の光景や地元の荒廃と重ねる人もいるだろうと思ったが、日本において今ひとつリアルに感じられないような気がした。
スラムという言葉があるが、シャッター商店街を一つのスラム化現象として見る視線を僕たちは持っているだろうか?
本文の中で語られるシャッター街はたしかにそれらスラムの一例であるが、私たちの中では「再生」の対象でありいつかまた公共のきっかけとなるであろう遺跡である。ニュアンスの違いは日本がまだそれを説明する言葉を持っていないからだという事も出来ようか。しかし根本にある経済状況との関係は両者ともに同じである。グローバル経済、その律動をフォロー出来るもの出来ないもので世界は全く変わってくる。

Ban + Van. Disaster Relief Projects. at Kunst Raum Riehen Baselで仮設住宅の設営と展示の構成の為に働いた。
関わったDienerのスタッフのごり押しによって実現した展覧会であって、坂さんは乗り気でない中で坂茂の考える事を考えた。打ち上げでの坂さんの話は目から鱗だった。ラディカルな建築家だな。特に初期の品から出てくる結構的なものは日本では稀だ。

全ての話はつながってくる。近代を乗り越える為の考え方をようやくし始める時代に来た。と思う。

7.22.2011






























Although, the World full covered with popularity.
Le quotidien est couvert de cliché quand même.
世界はそれこそ、装飾に満ちている

7.15.2011

Ce que j'ai fait, ce que je ferai

















まとめる時期に入っている、論文の内容をある種プールしてもっと広い範囲でのベースを作ろうとしている。

結果的に言ってスイスでの一年を終えて現在、どの留学生もが感じるであろう「一年では足りない」という感想を持っているのは事実だ。
贅沢な話ではあるが、外に出るという事は(特に日本人にとって)本来の目的とは別の意味で多くの事に邂逅したりしたりするものだ。僕もしかり。

結果的に言ってスイスでの一年を終えて、僕はスイスの建築のやり方を理解しなかったと思う。
これはまことに残念な事だが、思い当たる理由はいくらかある。
まずは自分の中の日本人性にいやでも気付かされるという事が、そういった目的への眼差しを多くの場面で曇らせた。
そしてスイスにいながらアテネでのプロジェクトを行った、これが最も致命的であった様に思う。

それが良かったか悪かったか、それは時間が判断してくれるだろう。(反省は常にすべきだが)

良かった点を言おう。結局僕はどこか特定の場所に根ざすという事が根本的に出来ないんだという確かな自己認識が出来た。しかしその上での場所との関わり方を考え末、幾らかの可能性を見いだす事が出来た。
そして周りのスイスの学生が欠乏のアテネへとプロジェクトを提案しているプロセスを見て、教育の根深さ•それによる根本的な過ちを指摘する事が出来た。反面教師ではあるのだが。

石井克人があるシンポジウムの中で話しているのだが、やはり日本人の内へ向かって行く精神はこの時代において問題である。
今回の災害の後、僕が危惧しているのはその点だ。国としての問題共有がどれほどなされているのか、メディアを追うだけでは見えてこない部分があるがユニティを獲得した後また外に向けてこの国が再発出来るのかどうか、僕は心配でしょうがない。

個人として一年の短かな濃縮経験を経た僕が何を追って行くべきか。クリアになってくるだろう。
スイスという経済的にも豊かで恒常的な安定をすすめる国(スイス建築のイメージにも当てはまるだろう)、それはベースであってモデルである。それはユートピアであると同時にある退屈さ限界を見せている場面も存在する。(これはまたプレゼンの機会にゆずるとする=まだクリアでない)

そんな場所からアテネに向けた希望の手紙をしたためていた私たちは、その行為がなんであるか根本的に考える必要があった。ある者は文体を間違え、ある者は綴る言語を間違えた。
その手紙が届くか届かないかも分からない状況に加え、内容にそれだけの含みがあってみよう手紙の価値すらも危うくなってしまう。

スイスでは国の中にメインで3つ、マイナーをいれれば4つの言語が話されている。
同じような状況のベルギーと比べ、とても安定した相互関係を作れている。(ドイツ語圏はフランス語を許容するが逆はそうでないにしても)
それが当然となった彼らはやり方を失わなければ、世界を相手に出来るベースを持っている。

問題はいかに他者を内に持ち、他者に語りかけるかの可能性にある。
僕にはまだそれは可能性としてしか理解出来ていないが、この後自分の位置に正直である為に
その土壌に種を植える土作りから始めなければならない。

それが帰国に際しての、次のステップに向けた表明である。



7.14.2011

je me suis dit...




















映画はストーリーの中において、そのストーリーに純に正直である。

建築にはいっぱい嘘がある。
でも最低限自分が走り続けるために、自分の考え•している事には正直である必要がある。
そのレベルにおいて僕は建築に正直にある必要がある。

この先大変になりそうだ。 
素敵な笑顔で帰国したいもんだ。



6.20.2011

事の終わりの始まり























一年間かけたスタジオが終った。
メモ帳に全てを書いていたから、blogの更新は地震以来になる。

地震後は実際ひどく体調を崩した時期だった。色々な事が重なりに重なって人生の中でも中なか難しい時期であった。
その後取り戻しながら巻き返しをはかったが、最終的に大満足ではなかった。評価は良の上といった所だから、EPFLのMasterスタジオで一番過酷と言われるスタジオの中で上には行けた。
得た事は多くある、それは多岐にわたる。全て同じ道の上に乗っている事だから日本を出て変わったとは思わない。

でも非常によい季節を築けたと思う。
スタジオの選択も全てがランダムに決まったが、その環境の中でやれた事見つけた事と人は決定的だった。

このスタジオでやれた事やれなかった事、今までやった事やれなかった事 将来に全てを還元する為に
ちゃんと日々をまとめて行く環境をスタジオ終了後整えた。(これは久しぶりの小栁津先生との会話で強調されたし堀越先生にも言われた、加えれば八束先生の記憶への憧憬もある。)

僕は8月に日本に帰る。それは出来るだけ早く日本での修士を終えるためで、半年で論文を終了しなければならない。
話の筋はだいたい決まっているが、まだまだUndefinedな事がたくさん散らばっている。それは一つのManifestになるだろう。

僕はまた外に出る。それは確かだ。 
負けて帰るか何で帰るか、それは人の言われよう。
この人口12万人の小さな街での全ての事柄に、嘘をつかないため 継続的な自分を作り世界と関わる。
この先にある事に行動と野望を持って、邁進して行く次第だ。

論文の事は追って追加して行こうと思います。
スイスでの体験も写真とともに夏中に後追いで載っけて行きます。

写真は先日首都のベルン(ローザンヌから電車で一時間程の)に赴き、先学期のStudioLAPAでGroup-workをやった友達を訪ねた。
KTHの元大工(リサーチ能力は普段のゴシップ集めにて培われた)と、哲学+社会学+建築を勉強して先学期EPFLをやめ他大のプロダクトに進みそれもやめ「先生になろうか」とぼやくバー勤務の30才ミュージシャンが写真にうつっている。
本当はもう一人このクソ野郎二匹の他に心の友がいて彼もBern出身だから楽しみにしていたけど、旅行(逃避)で留守だったので本当に残念だった。
アテネを一緒に歩き議論した彼ら、根本的に建築に甘すぎる(疑問を持ちすぎている)という点を除いて本当にいい友達だ。
たった半年だが違う事を経ての友人との再会を写真はちゃんと捕えていると思う。







3.20.2011

日本の皆様
































先の地震での様子、本当に目を疑うものでした。
皆さんの無事と早い回復を祈っています
と方々に送りたかったけどなんともこの一週間塞ぎがちでこうやって文章にしたためる事に時間がかかりました。



目を疑う。 遠く離れていると目と耳でしか情報は入ってこないし、自分から集めないと入ってきません。
それが本当に怖く感じました。



こっちでも毎日『大丈夫?』って聞かれるんだが、
その時に答える人称代名詞 私は 私たちは 私の両親は 私の友達は
なんて答えたらいいんだろうと 今まで感じた事のない気持ちを持った。

私は大丈夫、私の家族や友人も大丈夫。 それはそれで大事だが。
それだけではない。だから日本は大丈夫じゃない。と答えていた。


日本

ここしばらくこの国の事を考えていた。



こちらに来てから少々日本に対して消極的な考えを持つようになっていました。
それは新しい土地の魅力以外のなにものでもなく
しばらくして日本の不思議な魅力をじわじわと感じるようになりました。

何かと言える程限定した意味はないんだけど、こんなに特別な国に生まれ育つ事ができて本当に良かったなと思った。
たしかに今回もとても国として人としていけない部分が所々で見えたけども、
もらった幾らかのメールでこの国の素晴らしさをまた確認しました。

だからこの場を乗り切ってください。
あまり国の事とかいままで考えた事なかったけど、全ていい意味でとらえるべきだと思いました。



この先十数年、いや数十年この大きな惨劇の爪痕は皆の中に残ると思います。
でももうみんなは先を見ているはず。
その先をどう作るか、それは各々考えていると思う。
僕も建築を勉強している身として、長い目で見てどうやって今の状況を将来に生かせるかを真剣に考えようと改めて思う。


4月、さくらの季節 
その頃に日本で見る事の出来る景色 
本当に特別なもの 
この正念場の先にその景色があるとして、今は国を皆を信じて頑張りましょう。


僕の好きなDJ, Gilles Peterson が日本に向けてmixを作りました。
"Ganbare Nippon Mix"
この中にもありますが。
This is not the end, but only the veriest beginning.
そしてその後に流れる sakura sakura 



僕はあの日設計授業のクリティークがあり、プレゼン中に変な目眩がして座り込んで中断してしまったりしていました。
その後皆に励まされながら立ち上がり、
しばらく後に日本人の友達に 『家族とか大丈夫だった?』と聞かれ、
僕は ん?いつも通りじゃないかな?と答えた。

しばらくして何かおかしいと思い調べてみた。 
絶句だった。 これは時差ではない。本当の距離だと思った。
その後数日はもうパソコンにかじりついて連絡を取り情報を集め、
普段あまり話さないこちらの日本人の方と話す事に本当に助けられた。




もう何曲か曲を送ります。

メールをくれた友達、ありがとう。
僕も僕で調子のあがらないスタジオを必死で頑張ってやろうと思ってます。

今日最終のバスに乗り込んだら僕がいつも座る席にスイスでの募金活動のビラが置いてあった。
こちらスイスのローザンヌでも幾らかのチャリティーや募金活動が行われている。




3.06.2011

soft invention



































昨年MOMAで"small scale big change "という展覧会が行われたようだ。
"山椒は小粒でもピピリとからい"しかし内容を読み込むには少し深く飛び込んでみる必要がある。

深く飛び込むには少し時間がいる、そして大抵理解出来ずに終る。
私たちは世界を広たいと思っていても、それには少しコツがいるし簡単な事でもない。

僕が今プロジェクトで当たってる部分もそこだ、アテネは超極端な街だ。
言葉で表す事はむずかしい、だから前期みーっちりとリサーチをして来た。
それでも分かる事、分かれる事と分かれない事がある。僕の世界の際だ。

その中で一つ2つ見つけたかすかな手がかりが少しずつ関係しだして来たのでその整理を少しする。
考える事が多いとき程、ちゃんと記述して明確に整理するべきだ。

上の写真はアテネのPhilopappou Hillというアクロポリスの丘の南隣の丘である。
言うまでもなくアテネのハイライトはアクロポリスだが、このフィロパポはもっと何もなく気持ちのいい散歩道だ。
そしてこの何ともない道の舗装と、その脇にある教会と小さな小屋を設計したギリシャ人の建築家がいる。

Dimitris Pikionis (1887-1968)彼は大きくとも小学校くらいのスケールの建物しか生涯でやっていない。
彼の一番有名で影響力のある作品がこのPhilopappou HillのRehabilitationだ。
戦後アテネのネオクラシカルの歴史的な建物が取り壊される。当時歴史への感覚が軽薄だった事がわかる。
そしてその瓦礫をPikionisはAthensの再建の為の道に使う。自ら採取し、建設の歳も毎日現場に足を運び、レンガのかけらや不整形の石の配置を確かめる。当時の労働力は、精度なんかにおいてあまりいいものではなかったのでという事もある。しかしそれとは別の事がある。Pikionisは自らの感覚を探りながら現地での作業を進める。

かなりセンシティブな事である。しかしそうやってアテネのもう一つの丘は出来た。

僕は感動した。他の生徒の目にはあまり良くうつっていなかった様に見えたが。うちの教授やアシスタントは好んで彼の作品の心地よさを話す。

アテネに大くてちゃんとした施設は似合わない。それは皆がField Tripで感じた事である。
だから私たちのチームは都市の繊維を縫うように、幾らかの可能性をつなげた。

今回の設計はまったく目立つかっこいい方向には行かないと思う。
ただよく考えてみると、僕はそういう事をやった事がない。そういう意味でいつも通り(正確には2年程前までの)の感覚で素直な事を頑張って続けようかと思う。ちゃんと挑戦する部分ももうけつつ。

うちのスタジオには30人ちょっとの生徒がいて、今期は何人かチームでやっていたりするから合計20個くらいのプロジェクトがアテネの中心に置かれるようになる。
小さな変化が連鎖して街が変わって行く様子、それをスタジオで作って行くという雰囲気はとてもいいものだ。

いかにしても戦わなければ行けない。アテネと仲間と教授と歴史とかに。

もう一人アテネの偉人を紹介したい。

Melina Mercouri(1920-1994)
Pikionisとは時代の違う人間だが、元々女優や歌手として活躍した後に政治家となり多くの事をなした。
AthensにはUnification of Archeological Site というプログラムがあって、歴史的な場所の統合とでもいおうか今も動いているアテネの一大事業だ。それを発案したのが彼女で、文化庁大臣みたいなのをつとめていたときだ。
有名人上がりの政治家にあまりいい印象がないのはなんとなくあるけど、うまく使える人もたまにいる。
今のプランと彼女の理想は少し違っているが、間違いなく今後アテネを支えて行ける一石だ。

僕の計画する敷地やプログラムはそれらのExtension Projectでも言うようなものになると思う。
敬意を払って彼女のしようとした事を読み込んでいる。


中東の国の光景のように、道に絨毯を敷いたとしよう。
そこに大きな変化はないが、使い方が生まれ道は少し親しい場所になる。
アテネの盛り場は道と中庭によく見られた。あとは建築のタイポロジー。

クリティカルリージョナリズムでもグローバリーズムでもグローカルでも現せない、土地や人との奇妙な関係が
今は心地いい
自分は世界はこれからどこまで広がって行けるだろうか。





3.04.2011

Un expected space

























冬にした旅行などかなりの事が溜まっているのだが、今日は順を追って忘れそうな事から書こうと思う。

年末に家族が来てリヨンに行ったときの事、街の北東にある"Park de la Tête d'or"が一番歩いてみたかった場所だったのでそっちの方向に歩いた。
その途中で幾らかの建物を見たが、中でも考える事があったのがJean Nouvel"Opéra de Lyon"だった。
完全にノーマークだった。Nouvelの建物の印象はあまり良くなく(何も原因は見当たらない)、興味もあまりなかった。そしてその時考えたものも建物自身とはまた別の事であった。

ヌーヴェルのリヨンのオペラ座である、その言葉の中には何か魅惑的で日本人には持ち得ない類いの光沢が潜んでいる。そしてその言葉のままの期待が僕にはあった。
結果として屋上のドームの部分(雑誌などでよく見る室)や劇場内部には入っていない。しかしドアを開けレセプションの前を通り登って行くぐらいのシミュレーションは出来るものだ。

ここで問題だったのが、僕が予期した空間がそこになかった事だ。

"予期する空間" これはどこから来て何にベースを置いているのだろうか、それが問いだった。

建築の教育?モダンの感覚?エンターテインメントに浸った現代の感覚?
とにかく僕はあるシークエンスや劇場に至るまでの景色•空間の変化を疑似体験しようとしていた。そしてそれがなかった。
それは僕が劇場や主要な室に行かなかった事で、映画でいうクライマックスの時にトイレに行ってしまうような"欠落"が起こったからであろうか?映画にも一定のリズムでピークに至るものと急展開やシュルレアリスティックに場面が用意される事もある。しかし、それのどこにも該当しなかった。

そこには確かに"予期"がある事を僕は感じた。それが僕発信のものなのか、でもそうではないと思った。そういう点でやはり室やシーンの関係にはある"予期"が必要になってくる。
それを語るもしくは想像する姿は映画監督以外の何者でもないだろう。その"予期"が見る範囲を狭めているという見方もある一方で、その"予期"の精度を高めていく読みの作業もこの分野には大事である。
それは先日化学系の事をやられている方と話してそう思った。
実験をする-失敗をする-失敗から学ぶ-原因を知る、だから先生や教授はスゴい。

当たり前に感じる事の理由は、得てして良く分からない。しかしひとたび疑問を持つと、本当に良く分からない。この事に関して少し議論をしてみたい。

こちらにきて色々な事を基本的に考える。これも同じ。

ただこの事件以来、ヌーヴェルの他の建物を見た。それは本当に良かった。ただのトリックではなくて、アイデアとリアリゼがいいバランスを保った強い建築だった。
コペンハーゲンコンサートホールであるが、ああこういう開口ってあるんだに始まり"新しい"を所々に感じた。http://www.flickr.com/photos/maltesenwordpresscom/sets/72157612629842893/

ナントの裁判所は無理だけど、スイスはルツェルンとモラ(どこだ?)にあるから見に行きたいと思う。

1.11.2011

consistent policy in the world



























































































































































































Lyon 30+31.12 2011
ローヌ川とソーヌ川という兄弟みたいな名前の川に挟まれた一帯の南端(Lyon Part-Dieu以南)には過去工場(絹織物)があっただろう工業地帯がある。
現在その場所は宅地開発がなされ現在は建設と居住が同時進行のまさに豊洲的状況がひろがっている。
比較的大規模な為、近隣の古い住居群や治安の悪そうな地域(確証はない)とは外郭のみで接していてこれからそれらを飲み込んで行こうとしている。

le monolithe
masterplan / MVRDV
A-E block / MVRDV, ECDM, Manuelle Gautrand Architectes, Pierre Gautier Architectes, Erik van Egeraat Architects.

裏手に河川が引き込まれていたり、この佇まいは完全にどこかの豊洲にある大学に見えてしまう。
この抜けが計画的に次期の計画につながって行くと建物の利用者からすると心地のいいものになりそうだ。
基本ボリュームはMVの方から提出され、五個に分節された棟を各お友達達が設計しているようでその様子はどこかのオランダの街のようだ。
実際は博覧会的な様相はなく、一つ一つが別のものに見える様になっている。ボリュームの切り方等だろうか。
中でもフランス人建築家ECDMの棟を見たときは簡単な操作だけどもファブリケーションの事を中心に装飾の事を考えていた。上に行けば光は強くなるし、そうすると同じパターンがどんどん消えて行っちゃうわけでそれが本来いい事なのかどうなのか。金の話は以前に新建築で高橋堅さんが書いていたけど、それは「金」の事で金色の事ではないし。
内部を見れなかったのでこういう感想になります。まわりの建物が小分けになっていたのに対して、この建物はある計画を持っているという立ち方が出ていたし今後どうやってまわりを巻き込むかという事を(見た目以上には閉じていない計画)雑にも少しは感じさせられるものだった。
好みではないけど、大きいレベルで設定をしていく大切さを少し感じた時期でした。