8.06.2011

La femme d'apparence douce





























地域主義の為の建築だとは感じなかったが、一件剥離した内外が結構的に依存し合ってる様子は新しい事を考えさせられるきっかけだった。
Bagsværd Church / Jørn Oberg Utzon, Bagsværd, Denmark 1962-1976

8.03.2011

L'occasion d'un grand maître


























全ての話は常に話として語られるけど、実際に足を踏み入れてみるとそれは全く違った話だという事を分かる事が出来る。
La Maison Blanche / Charles-Edouard Jeanneret-Gris, La Chaux-de-Fonds 1912






































8.01.2011

l'époque d'archi




























残り90%のデザイン

最近頭に残っている「Small Scale, Big Change」の巻頭の文章。
毎回校買の本棚で立ち読みして、こんだけ見てるんだったら買えよって思うんだが買わない。
それは内容が買わないを選択させるからで、小さな街づくりスケールのもの土着的な復興のプロジェクトなんかが載っている。
僕は(もしかしたら私たち)はそれらを知る事は出来るが、信じる事が出来る地点にはいない。
つまり例外だと言う事で、それら例外と戦って行くのがこれからの世界である。

篠原雅武の「空間のために -偏在化するスラム的世界のなかで-」を読んだ人はいるだろうか。
アーレントやルフェーブルの空間論ににわか興味を持った頃に会った著者の名前が論文系のリサーチの中でよぎって、辿ったら新刊が出ていた。是非読んでと言いたいところだが、やはりこの手の事は周りが分からないと分からない。
僕は完全にこれをアテネの都市状況と重ねて読んだ。震災後の光景や地元の荒廃と重ねる人もいるだろうと思ったが、日本において今ひとつリアルに感じられないような気がした。
スラムという言葉があるが、シャッター商店街を一つのスラム化現象として見る視線を僕たちは持っているだろうか?
本文の中で語られるシャッター街はたしかにそれらスラムの一例であるが、私たちの中では「再生」の対象でありいつかまた公共のきっかけとなるであろう遺跡である。ニュアンスの違いは日本がまだそれを説明する言葉を持っていないからだという事も出来ようか。しかし根本にある経済状況との関係は両者ともに同じである。グローバル経済、その律動をフォロー出来るもの出来ないもので世界は全く変わってくる。

Ban + Van. Disaster Relief Projects. at Kunst Raum Riehen Baselで仮設住宅の設営と展示の構成の為に働いた。
関わったDienerのスタッフのごり押しによって実現した展覧会であって、坂さんは乗り気でない中で坂茂の考える事を考えた。打ち上げでの坂さんの話は目から鱗だった。ラディカルな建築家だな。特に初期の品から出てくる結構的なものは日本では稀だ。

全ての話はつながってくる。近代を乗り越える為の考え方をようやくし始める時代に来た。と思う。