10.26.2011

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装飾は罪悪か?最悪か?
じゃあ罪悪って何だ今の時代。倫理感を定義付けできなくなった今、世紀末ウィーンと比較してもよりシビアに診断していかなくてはならない。
これは自明だ。まずそれからだ言い切るのは。

戻るべきは身体か?深退化?
自然を含め共感覚を誘うような「感じ」が良しとされている暗黙のグレーゾーン。上の犯罪ではないが、これも原点設定するにはとても危うい。
まず観察者は誰だ。我々は身体を共有しているのか。

では時代はグローバルか?ネイションか?
まずそもそも両者の原義が怪しい、そこでより怪しい二つを変わりに対峙してみる。これは言うなれば建築が語る事を恐れるダークサイドでもある。

経済か?神話か?
世界は昔つながっていたんだろうか?もともと交流的性格を持っていたんだろうか?
両者はその始源を共有している。実態がないという事に関して。
神の見えざる手とは巧く言ったもんだ。今頃トレーダー達は自分の手に脳に神を見ているんだろうか。

更にアイコンと文様として考えると少し分かりやすくなる。
我々は文様の奥にロマンを見、アイコンの奥に空洞をみる。
ロマンとは空洞の事なんだろうか。

装飾を断罪し、世界をジャンクスペースの固まりとして認識したあと
世界が本当のジャンクスペースと装飾の波に飲まれた今。

私は何をしよう。
基準の提示と散文による世界小説を前提として、私はつぶやくことしかできないのか。

無力を感じている。
でも背中に着けたツインターボのエンジンを一瞥し、それでも足をつけて頑張ろう。

あ、これ論文の話ね。


2 件のコメント:

Rintaro さんのコメント...

装飾のない建築は、ダイアグラムみたいなもんだよ、とチューターに言われて、なんかすげーなと思ったよ。直観的に。
さっき話すの忘れたけど、歴史と理論の授業で、「建築と言語」という(じぶんでもなんでこのグループ選んじまったのか不思議な)グループに入っていて、ペヴスナーから始めて、時代を行ったり来たりしつつ、建築が言葉でどのように表現されて来たかという話をやってます。当然、装飾についての言葉がこちらには大量にあるので、装飾からは逃れられないのですが…脱線した。ゲーテの「イタリア紀行」のヴィツェンツァに行ってパラディオを見たという箇所がオススメです。日記(実際は、手紙)のような語り口で、建築の評論家ではないゲーテが、パラディオを見て、どう感じたかを書いています。出来れば英語(堀木さんの場合、フランス語でも良いと思う)で読む方がよいです。今日本で売られている「イタリア紀行」の訳本がどんなのか知らないけど、少なくともネットで引用されているのを見つけたところ、日本語訳は、ヒドいと思ったので。修辞が激しすぎて、気取った学生の文章みたいになっているのと、時には誤訳さえしています。
あとイギリスでは(バートレットでは?)ピラネージが絶大な支持を受けていますが、ピラネージの時代にすでに装飾についての議論があります。「ピラネージ建築論 対話」(横手義洋さんが訳したやつ)に、興味深い(仮想の)対話をピラネージが書いてます。参考になるかわかりませんが、時間があったらどうぞ。というか、ピラネージは読んだ方がいいと思う。

s.horiki さんのコメント...

ですね。
ダイアグラムを簡易化して示した善の説明として見なしてしまうのは危ない。
ダイアグラムを容認してしまった事によって誰でも建築を作れる様になったとでも言おうか。まだ建築の見られ方が決まっている国ならいいが、この国ではとても怖いものを感じるよね。それを今年のトリエンナーレで思った。説明的=民主的 を夢見た小世界
とにかく人はいっぱいいるんだけど、いい作品がどこにもないんだ。(今横浜市がお金ないということもあるけど)

とにかく紹介してくれたやつには目を通す。
僕も言い忘れたけど とにかく楽しんでください。