3.20.2011

日本の皆様
































先の地震での様子、本当に目を疑うものでした。
皆さんの無事と早い回復を祈っています
と方々に送りたかったけどなんともこの一週間塞ぎがちでこうやって文章にしたためる事に時間がかかりました。



目を疑う。 遠く離れていると目と耳でしか情報は入ってこないし、自分から集めないと入ってきません。
それが本当に怖く感じました。



こっちでも毎日『大丈夫?』って聞かれるんだが、
その時に答える人称代名詞 私は 私たちは 私の両親は 私の友達は
なんて答えたらいいんだろうと 今まで感じた事のない気持ちを持った。

私は大丈夫、私の家族や友人も大丈夫。 それはそれで大事だが。
それだけではない。だから日本は大丈夫じゃない。と答えていた。


日本

ここしばらくこの国の事を考えていた。



こちらに来てから少々日本に対して消極的な考えを持つようになっていました。
それは新しい土地の魅力以外のなにものでもなく
しばらくして日本の不思議な魅力をじわじわと感じるようになりました。

何かと言える程限定した意味はないんだけど、こんなに特別な国に生まれ育つ事ができて本当に良かったなと思った。
たしかに今回もとても国として人としていけない部分が所々で見えたけども、
もらった幾らかのメールでこの国の素晴らしさをまた確認しました。

だからこの場を乗り切ってください。
あまり国の事とかいままで考えた事なかったけど、全ていい意味でとらえるべきだと思いました。



この先十数年、いや数十年この大きな惨劇の爪痕は皆の中に残ると思います。
でももうみんなは先を見ているはず。
その先をどう作るか、それは各々考えていると思う。
僕も建築を勉強している身として、長い目で見てどうやって今の状況を将来に生かせるかを真剣に考えようと改めて思う。


4月、さくらの季節 
その頃に日本で見る事の出来る景色 
本当に特別なもの 
この正念場の先にその景色があるとして、今は国を皆を信じて頑張りましょう。


僕の好きなDJ, Gilles Peterson が日本に向けてmixを作りました。
"Ganbare Nippon Mix"
この中にもありますが。
This is not the end, but only the veriest beginning.
そしてその後に流れる sakura sakura 



僕はあの日設計授業のクリティークがあり、プレゼン中に変な目眩がして座り込んで中断してしまったりしていました。
その後皆に励まされながら立ち上がり、
しばらく後に日本人の友達に 『家族とか大丈夫だった?』と聞かれ、
僕は ん?いつも通りじゃないかな?と答えた。

しばらくして何かおかしいと思い調べてみた。 
絶句だった。 これは時差ではない。本当の距離だと思った。
その後数日はもうパソコンにかじりついて連絡を取り情報を集め、
普段あまり話さないこちらの日本人の方と話す事に本当に助けられた。




もう何曲か曲を送ります。

メールをくれた友達、ありがとう。
僕も僕で調子のあがらないスタジオを必死で頑張ってやろうと思ってます。

今日最終のバスに乗り込んだら僕がいつも座る席にスイスでの募金活動のビラが置いてあった。
こちらスイスのローザンヌでも幾らかのチャリティーや募金活動が行われている。




3.06.2011

soft invention



































昨年MOMAで"small scale big change "という展覧会が行われたようだ。
"山椒は小粒でもピピリとからい"しかし内容を読み込むには少し深く飛び込んでみる必要がある。

深く飛び込むには少し時間がいる、そして大抵理解出来ずに終る。
私たちは世界を広たいと思っていても、それには少しコツがいるし簡単な事でもない。

僕が今プロジェクトで当たってる部分もそこだ、アテネは超極端な街だ。
言葉で表す事はむずかしい、だから前期みーっちりとリサーチをして来た。
それでも分かる事、分かれる事と分かれない事がある。僕の世界の際だ。

その中で一つ2つ見つけたかすかな手がかりが少しずつ関係しだして来たのでその整理を少しする。
考える事が多いとき程、ちゃんと記述して明確に整理するべきだ。

上の写真はアテネのPhilopappou Hillというアクロポリスの丘の南隣の丘である。
言うまでもなくアテネのハイライトはアクロポリスだが、このフィロパポはもっと何もなく気持ちのいい散歩道だ。
そしてこの何ともない道の舗装と、その脇にある教会と小さな小屋を設計したギリシャ人の建築家がいる。

Dimitris Pikionis (1887-1968)彼は大きくとも小学校くらいのスケールの建物しか生涯でやっていない。
彼の一番有名で影響力のある作品がこのPhilopappou HillのRehabilitationだ。
戦後アテネのネオクラシカルの歴史的な建物が取り壊される。当時歴史への感覚が軽薄だった事がわかる。
そしてその瓦礫をPikionisはAthensの再建の為の道に使う。自ら採取し、建設の歳も毎日現場に足を運び、レンガのかけらや不整形の石の配置を確かめる。当時の労働力は、精度なんかにおいてあまりいいものではなかったのでという事もある。しかしそれとは別の事がある。Pikionisは自らの感覚を探りながら現地での作業を進める。

かなりセンシティブな事である。しかしそうやってアテネのもう一つの丘は出来た。

僕は感動した。他の生徒の目にはあまり良くうつっていなかった様に見えたが。うちの教授やアシスタントは好んで彼の作品の心地よさを話す。

アテネに大くてちゃんとした施設は似合わない。それは皆がField Tripで感じた事である。
だから私たちのチームは都市の繊維を縫うように、幾らかの可能性をつなげた。

今回の設計はまったく目立つかっこいい方向には行かないと思う。
ただよく考えてみると、僕はそういう事をやった事がない。そういう意味でいつも通り(正確には2年程前までの)の感覚で素直な事を頑張って続けようかと思う。ちゃんと挑戦する部分ももうけつつ。

うちのスタジオには30人ちょっとの生徒がいて、今期は何人かチームでやっていたりするから合計20個くらいのプロジェクトがアテネの中心に置かれるようになる。
小さな変化が連鎖して街が変わって行く様子、それをスタジオで作って行くという雰囲気はとてもいいものだ。

いかにしても戦わなければ行けない。アテネと仲間と教授と歴史とかに。

もう一人アテネの偉人を紹介したい。

Melina Mercouri(1920-1994)
Pikionisとは時代の違う人間だが、元々女優や歌手として活躍した後に政治家となり多くの事をなした。
AthensにはUnification of Archeological Site というプログラムがあって、歴史的な場所の統合とでもいおうか今も動いているアテネの一大事業だ。それを発案したのが彼女で、文化庁大臣みたいなのをつとめていたときだ。
有名人上がりの政治家にあまりいい印象がないのはなんとなくあるけど、うまく使える人もたまにいる。
今のプランと彼女の理想は少し違っているが、間違いなく今後アテネを支えて行ける一石だ。

僕の計画する敷地やプログラムはそれらのExtension Projectでも言うようなものになると思う。
敬意を払って彼女のしようとした事を読み込んでいる。


中東の国の光景のように、道に絨毯を敷いたとしよう。
そこに大きな変化はないが、使い方が生まれ道は少し親しい場所になる。
アテネの盛り場は道と中庭によく見られた。あとは建築のタイポロジー。

クリティカルリージョナリズムでもグローバリーズムでもグローカルでも現せない、土地や人との奇妙な関係が
今は心地いい
自分は世界はこれからどこまで広がって行けるだろうか。





3.04.2011

Un expected space

























冬にした旅行などかなりの事が溜まっているのだが、今日は順を追って忘れそうな事から書こうと思う。

年末に家族が来てリヨンに行ったときの事、街の北東にある"Park de la Tête d'or"が一番歩いてみたかった場所だったのでそっちの方向に歩いた。
その途中で幾らかの建物を見たが、中でも考える事があったのがJean Nouvel"Opéra de Lyon"だった。
完全にノーマークだった。Nouvelの建物の印象はあまり良くなく(何も原因は見当たらない)、興味もあまりなかった。そしてその時考えたものも建物自身とはまた別の事であった。

ヌーヴェルのリヨンのオペラ座である、その言葉の中には何か魅惑的で日本人には持ち得ない類いの光沢が潜んでいる。そしてその言葉のままの期待が僕にはあった。
結果として屋上のドームの部分(雑誌などでよく見る室)や劇場内部には入っていない。しかしドアを開けレセプションの前を通り登って行くぐらいのシミュレーションは出来るものだ。

ここで問題だったのが、僕が予期した空間がそこになかった事だ。

"予期する空間" これはどこから来て何にベースを置いているのだろうか、それが問いだった。

建築の教育?モダンの感覚?エンターテインメントに浸った現代の感覚?
とにかく僕はあるシークエンスや劇場に至るまでの景色•空間の変化を疑似体験しようとしていた。そしてそれがなかった。
それは僕が劇場や主要な室に行かなかった事で、映画でいうクライマックスの時にトイレに行ってしまうような"欠落"が起こったからであろうか?映画にも一定のリズムでピークに至るものと急展開やシュルレアリスティックに場面が用意される事もある。しかし、それのどこにも該当しなかった。

そこには確かに"予期"がある事を僕は感じた。それが僕発信のものなのか、でもそうではないと思った。そういう点でやはり室やシーンの関係にはある"予期"が必要になってくる。
それを語るもしくは想像する姿は映画監督以外の何者でもないだろう。その"予期"が見る範囲を狭めているという見方もある一方で、その"予期"の精度を高めていく読みの作業もこの分野には大事である。
それは先日化学系の事をやられている方と話してそう思った。
実験をする-失敗をする-失敗から学ぶ-原因を知る、だから先生や教授はスゴい。

当たり前に感じる事の理由は、得てして良く分からない。しかしひとたび疑問を持つと、本当に良く分からない。この事に関して少し議論をしてみたい。

こちらにきて色々な事を基本的に考える。これも同じ。

ただこの事件以来、ヌーヴェルの他の建物を見た。それは本当に良かった。ただのトリックではなくて、アイデアとリアリゼがいいバランスを保った強い建築だった。
コペンハーゲンコンサートホールであるが、ああこういう開口ってあるんだに始まり"新しい"を所々に感じた。http://www.flickr.com/photos/maltesenwordpresscom/sets/72157612629842893/

ナントの裁判所は無理だけど、スイスはルツェルンとモラ(どこだ?)にあるから見に行きたいと思う。