5.06.2015

シンプルな衝動 再開の一打  BR0001「らしい建築批判」飯島洋一


放置してしばらくの時間が経ってしまった、この場所を再開するには理由がいった。
実務の場に身を置き始めて2年余りが経ったが、余りにも自分からかけ離れた場所だと思っていたので、変に身構えてしまっていて批判的な心もすっ飛ぶほどの茫漠としたかつ濃密な体験であった。

少し先の事を考えてみた。
何かこの違和感を埋めなければと思った。
この期間のうちにも、少しでもの反抗となればと今までより安定的に入ってくる稼ぎの内より書籍に対して捻出する事は怠らなかったが。
それが何なのかとふと足が止まった。

ここまでの主題はなんとなくに構造主義理解であったが、それが明晰に実務の現状を整理することとリンクしていたからであって、先を見据えての何かでは無かった事に気がついたからである。
それも小生の快楽の一端を満たしていたようだが、もはやそれは自動運転すればよい。
そういったアクチュアリティを持ったプラクシスとして十全に全う出来ると考えた自分が怖くなったのだ。

無論そういったものを実践する場としては申し分の無いところにいる事は理解しているが、「シナプスちゃんはご立腹」なのである。
どうやっても日常の中で負けてしまう時間ではあるが、食や音楽を差し置いても、僕の栄養分はやはり活字を読むときのフロウやグルーブから来るものが大きい。
ともすると最初から自己分析の様相を含み、弱気な宣言であるが、この時間を今後差し込んでシナプスちゃんの活性化を計りたいと思っている。
(ドライブがかかると常軌を逸しがちで、この時間にも仕事を辞めてバイトしながら本が読みたいと、元も子もない事を考えはじめている故の事である。)



BR0001 「らしい」建築批判/飯島洋一

修士論文以降、頭を整理していなかったが、僕はこの文中での革命派でもなく趣味派でもない。どちらかというと革命派に憧れる軟派なやつであって、革命を起こす人間ではない。
まだ全部を読み終わっていない状況だが、1-3章までの序と4-6章までの本論、7-9章までの序論(未読)と恐らく最初と最後で現在と切断し再接続する構成である。
特に全体の1/3を占める6章に辿り着くまで、またその中で繰り広げられている引用の数々にこの著書の多くの時間が裂かれている事であろう。もともとの雑誌媒体からの飛躍、込められた熱量として凄みを感じる。

「らしい」に関連して章内ではパスティシュという言葉が登場する。
小生が愛飲するPERNODやRICARDはパスティスである。
元々をアブサンに由来し、禁止以降の代用品として南仏より好まれてきたこのお酒は言うなれば水の歯磨き粉割りとして受け取られる。
もともと薬として作られた、アブサンにかけられた容疑は幻覚でありボヘミアン達に愛された。
小生はこのストーリーを後から知ったのだが、とても性に合っていると思い気に入っている。
何せ少し気持ちがいいのである。
本当のアブサンを飲めるのは何かが終わり、後に何もない時。もしくは放棄したい時。
そこまでの強い気持ちに駆られる毎日等過ごしているわけも無く、パスティスを常飲している。

pastiche 模倣,模作
pastis アニスの香りをつけた酒 面倒なこと,厄介事

>wiki
pastisはもともとOccitanというカタロニアの非公認言語を語源に持つとある。
意味はmash-upだという。

mash-up = pastiche である。

ここで本論との琴線が張られた。
アブサンっぽい酒を飲む心、アブサンを飲ませない時代
アブサンを飲む事を自粛している我々の精神性に関しての書物である。

180p以降の近代に関する引用の波の中で問われる各人が述べる新しい時代の「何か」に対する明言の不足。
趣味と革命の味の違いは、そうした日常の物足りなさと中途半端な充足に端を発する。
という事で「何か」を実践側で探してみようと思う。