3.04.2011

Un expected space

























冬にした旅行などかなりの事が溜まっているのだが、今日は順を追って忘れそうな事から書こうと思う。

年末に家族が来てリヨンに行ったときの事、街の北東にある"Park de la Tête d'or"が一番歩いてみたかった場所だったのでそっちの方向に歩いた。
その途中で幾らかの建物を見たが、中でも考える事があったのがJean Nouvel"Opéra de Lyon"だった。
完全にノーマークだった。Nouvelの建物の印象はあまり良くなく(何も原因は見当たらない)、興味もあまりなかった。そしてその時考えたものも建物自身とはまた別の事であった。

ヌーヴェルのリヨンのオペラ座である、その言葉の中には何か魅惑的で日本人には持ち得ない類いの光沢が潜んでいる。そしてその言葉のままの期待が僕にはあった。
結果として屋上のドームの部分(雑誌などでよく見る室)や劇場内部には入っていない。しかしドアを開けレセプションの前を通り登って行くぐらいのシミュレーションは出来るものだ。

ここで問題だったのが、僕が予期した空間がそこになかった事だ。

"予期する空間" これはどこから来て何にベースを置いているのだろうか、それが問いだった。

建築の教育?モダンの感覚?エンターテインメントに浸った現代の感覚?
とにかく僕はあるシークエンスや劇場に至るまでの景色•空間の変化を疑似体験しようとしていた。そしてそれがなかった。
それは僕が劇場や主要な室に行かなかった事で、映画でいうクライマックスの時にトイレに行ってしまうような"欠落"が起こったからであろうか?映画にも一定のリズムでピークに至るものと急展開やシュルレアリスティックに場面が用意される事もある。しかし、それのどこにも該当しなかった。

そこには確かに"予期"がある事を僕は感じた。それが僕発信のものなのか、でもそうではないと思った。そういう点でやはり室やシーンの関係にはある"予期"が必要になってくる。
それを語るもしくは想像する姿は映画監督以外の何者でもないだろう。その"予期"が見る範囲を狭めているという見方もある一方で、その"予期"の精度を高めていく読みの作業もこの分野には大事である。
それは先日化学系の事をやられている方と話してそう思った。
実験をする-失敗をする-失敗から学ぶ-原因を知る、だから先生や教授はスゴい。

当たり前に感じる事の理由は、得てして良く分からない。しかしひとたび疑問を持つと、本当に良く分からない。この事に関して少し議論をしてみたい。

こちらにきて色々な事を基本的に考える。これも同じ。

ただこの事件以来、ヌーヴェルの他の建物を見た。それは本当に良かった。ただのトリックではなくて、アイデアとリアリゼがいいバランスを保った強い建築だった。
コペンハーゲンコンサートホールであるが、ああこういう開口ってあるんだに始まり"新しい"を所々に感じた。http://www.flickr.com/photos/maltesenwordpresscom/sets/72157612629842893/

ナントの裁判所は無理だけど、スイスはルツェルンとモラ(どこだ?)にあるから見に行きたいと思う。

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