2.27.2012

somewhere

















こうやって普通に映画の事を書くと言うのがどれだけ平和か身にしみています。
論文中は、もうゴダール様々って感じで痛快な気分にならせていただいたのだけれど
やっぱり映画に関して何か言うっていうのほど、贅沢な事はないわけです。


大衆文化は君主と領主の瓦解から生まれたわけだけれど、それがやっぱり都市の美しさみたいなのを生み出した事であって、それは大変に大変なことなんだと思う。そして映画の中にはそういう美しさみたいなのを、すっと見ているこちらの日常に反映してしまいそうなものもある。
映画は近代芸術の一大転換だったけども、こういう二時間なり三時間の時間を買うっていう感覚は非常にアナログで、蜷川実花がフィルムで撮る事にこだわる時に一枚一枚にお金がかかってる事を自覚する事に少し似ている。こういう感覚はいろいろなところにあるだろうけど、ソフィア•コッポラの『somewhere』はまず極めて際どい事をやっていながら、全体を通して「普通」であり続ける映画だった。とくに『マリーアントワネット』から四年たって、その落差に『lost in translation』的な茫漠たる人生観を探したりさせるような、強弱が存在する。言ってしまえばホテルみたいな無重力空間を舞台にした、90年代郊外的雰囲気を匂わせているのだが、それだけで終わらないシュールすぎないバランスのいいコメディが全体にあった。それを一言で「センスのいい」といってしまっていいのかはわからないが、好きか嫌いかという感情を発生させないこの「普通」さをわれわれはいつまでも続けて行くのだろうかという事を考えていた。とにかくこれはまだ分からない映画であると結論をつけた、つまり僕の乗り越えられない年齢的感覚が絶対的にこの映画を美しくしているんだろうからだ。変に共感してもいけないけど、まあそおなのかなと想像することがこの映画の感想だった。

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