7.22.2011






























Although, the World full covered with popularity.
Le quotidien est couvert de cliché quand même.
世界はそれこそ、装飾に満ちている。

7.15.2011

Ce que j'ai fait, ce que je ferai

















まとめる時期に入っている、論文の内容をある種プールしてもっと広い範囲でのベースを作ろうとしている。

結果的に言ってスイスでの一年を終えて現在、どの留学生もが感じるであろう「一年では足りない」という感想を持っているのは事実だ。
贅沢な話ではあるが、外に出るという事は(特に日本人にとって)本来の目的とは別の意味で多くの事に邂逅したりしたりするものだ。僕もしかり。

結果的に言ってスイスでの一年を終えて、僕はスイスの建築のやり方を理解しなかったと思う。
これはまことに残念な事だが、思い当たる理由はいくらかある。
まずは自分の中の日本人性にいやでも気付かされるという事が、そういった目的への眼差しを多くの場面で曇らせた。
そしてスイスにいながらアテネでのプロジェクトを行った、これが最も致命的であった様に思う。

それが良かったか悪かったか、それは時間が判断してくれるだろう。(反省は常にすべきだが)

良かった点を言おう。結局僕はどこか特定の場所に根ざすという事が根本的に出来ないんだという確かな自己認識が出来た。しかしその上での場所との関わり方を考え末、幾らかの可能性を見いだす事が出来た。
そして周りのスイスの学生が欠乏のアテネへとプロジェクトを提案しているプロセスを見て、教育の根深さ•それによる根本的な過ちを指摘する事が出来た。反面教師ではあるのだが。

石井克人があるシンポジウムの中で話しているのだが、やはり日本人の内へ向かって行く精神はこの時代において問題である。
今回の災害の後、僕が危惧しているのはその点だ。国としての問題共有がどれほどなされているのか、メディアを追うだけでは見えてこない部分があるがユニティを獲得した後また外に向けてこの国が再発出来るのかどうか、僕は心配でしょうがない。

個人として一年の短かな濃縮経験を経た僕が何を追って行くべきか。クリアになってくるだろう。
スイスという経済的にも豊かで恒常的な安定をすすめる国(スイス建築のイメージにも当てはまるだろう)、それはベースであってモデルである。それはユートピアであると同時にある退屈さ限界を見せている場面も存在する。(これはまたプレゼンの機会にゆずるとする=まだクリアでない)

そんな場所からアテネに向けた希望の手紙をしたためていた私たちは、その行為がなんであるか根本的に考える必要があった。ある者は文体を間違え、ある者は綴る言語を間違えた。
その手紙が届くか届かないかも分からない状況に加え、内容にそれだけの含みがあってみよう手紙の価値すらも危うくなってしまう。

スイスでは国の中にメインで3つ、マイナーをいれれば4つの言語が話されている。
同じような状況のベルギーと比べ、とても安定した相互関係を作れている。(ドイツ語圏はフランス語を許容するが逆はそうでないにしても)
それが当然となった彼らはやり方を失わなければ、世界を相手に出来るベースを持っている。

問題はいかに他者を内に持ち、他者に語りかけるかの可能性にある。
僕にはまだそれは可能性としてしか理解出来ていないが、この後自分の位置に正直である為に
その土壌に種を植える土作りから始めなければならない。

それが帰国に際しての、次のステップに向けた表明である。



7.14.2011

je me suis dit...




















映画はストーリーの中において、そのストーリーに純に正直である。

建築にはいっぱい嘘がある。
でも最低限自分が走り続けるために、自分の考え•している事には正直である必要がある。
そのレベルにおいて僕は建築に正直にある必要がある。

この先大変になりそうだ。 
素敵な笑顔で帰国したいもんだ。



6.20.2011

事の終わりの始まり























一年間かけたスタジオが終った。
メモ帳に全てを書いていたから、blogの更新は地震以来になる。

地震後は実際ひどく体調を崩した時期だった。色々な事が重なりに重なって人生の中でも中なか難しい時期であった。
その後取り戻しながら巻き返しをはかったが、最終的に大満足ではなかった。評価は良の上といった所だから、EPFLのMasterスタジオで一番過酷と言われるスタジオの中で上には行けた。
得た事は多くある、それは多岐にわたる。全て同じ道の上に乗っている事だから日本を出て変わったとは思わない。

でも非常によい季節を築けたと思う。
スタジオの選択も全てがランダムに決まったが、その環境の中でやれた事見つけた事と人は決定的だった。

このスタジオでやれた事やれなかった事、今までやった事やれなかった事 将来に全てを還元する為に
ちゃんと日々をまとめて行く環境をスタジオ終了後整えた。(これは久しぶりの小栁津先生との会話で強調されたし堀越先生にも言われた、加えれば八束先生の記憶への憧憬もある。)

僕は8月に日本に帰る。それは出来るだけ早く日本での修士を終えるためで、半年で論文を終了しなければならない。
話の筋はだいたい決まっているが、まだまだUndefinedな事がたくさん散らばっている。それは一つのManifestになるだろう。

僕はまた外に出る。それは確かだ。 
負けて帰るか何で帰るか、それは人の言われよう。
この人口12万人の小さな街での全ての事柄に、嘘をつかないため 継続的な自分を作り世界と関わる。
この先にある事に行動と野望を持って、邁進して行く次第だ。

論文の事は追って追加して行こうと思います。
スイスでの体験も写真とともに夏中に後追いで載っけて行きます。

写真は先日首都のベルン(ローザンヌから電車で一時間程の)に赴き、先学期のStudioLAPAでGroup-workをやった友達を訪ねた。
KTHの元大工(リサーチ能力は普段のゴシップ集めにて培われた)と、哲学+社会学+建築を勉強して先学期EPFLをやめ他大のプロダクトに進みそれもやめ「先生になろうか」とぼやくバー勤務の30才ミュージシャンが写真にうつっている。
本当はもう一人このクソ野郎二匹の他に心の友がいて彼もBern出身だから楽しみにしていたけど、旅行(逃避)で留守だったので本当に残念だった。
アテネを一緒に歩き議論した彼ら、根本的に建築に甘すぎる(疑問を持ちすぎている)という点を除いて本当にいい友達だ。
たった半年だが違う事を経ての友人との再会を写真はちゃんと捕えていると思う。







3.20.2011

日本の皆様
































先の地震での様子、本当に目を疑うものでした。
皆さんの無事と早い回復を祈っています
と方々に送りたかったけどなんともこの一週間塞ぎがちでこうやって文章にしたためる事に時間がかかりました。



目を疑う。 遠く離れていると目と耳でしか情報は入ってこないし、自分から集めないと入ってきません。
それが本当に怖く感じました。



こっちでも毎日『大丈夫?』って聞かれるんだが、
その時に答える人称代名詞 私は 私たちは 私の両親は 私の友達は
なんて答えたらいいんだろうと 今まで感じた事のない気持ちを持った。

私は大丈夫、私の家族や友人も大丈夫。 それはそれで大事だが。
それだけではない。だから日本は大丈夫じゃない。と答えていた。


日本

ここしばらくこの国の事を考えていた。



こちらに来てから少々日本に対して消極的な考えを持つようになっていました。
それは新しい土地の魅力以外のなにものでもなく
しばらくして日本の不思議な魅力をじわじわと感じるようになりました。

何かと言える程限定した意味はないんだけど、こんなに特別な国に生まれ育つ事ができて本当に良かったなと思った。
たしかに今回もとても国として人としていけない部分が所々で見えたけども、
もらった幾らかのメールでこの国の素晴らしさをまた確認しました。

だからこの場を乗り切ってください。
あまり国の事とかいままで考えた事なかったけど、全ていい意味でとらえるべきだと思いました。



この先十数年、いや数十年この大きな惨劇の爪痕は皆の中に残ると思います。
でももうみんなは先を見ているはず。
その先をどう作るか、それは各々考えていると思う。
僕も建築を勉強している身として、長い目で見てどうやって今の状況を将来に生かせるかを真剣に考えようと改めて思う。


4月、さくらの季節 
その頃に日本で見る事の出来る景色 
本当に特別なもの 
この正念場の先にその景色があるとして、今は国を皆を信じて頑張りましょう。


僕の好きなDJ, Gilles Peterson が日本に向けてmixを作りました。
"Ganbare Nippon Mix"
この中にもありますが。
This is not the end, but only the veriest beginning.
そしてその後に流れる sakura sakura 



僕はあの日設計授業のクリティークがあり、プレゼン中に変な目眩がして座り込んで中断してしまったりしていました。
その後皆に励まされながら立ち上がり、
しばらく後に日本人の友達に 『家族とか大丈夫だった?』と聞かれ、
僕は ん?いつも通りじゃないかな?と答えた。

しばらくして何かおかしいと思い調べてみた。 
絶句だった。 これは時差ではない。本当の距離だと思った。
その後数日はもうパソコンにかじりついて連絡を取り情報を集め、
普段あまり話さないこちらの日本人の方と話す事に本当に助けられた。




もう何曲か曲を送ります。

メールをくれた友達、ありがとう。
僕も僕で調子のあがらないスタジオを必死で頑張ってやろうと思ってます。

今日最終のバスに乗り込んだら僕がいつも座る席にスイスでの募金活動のビラが置いてあった。
こちらスイスのローザンヌでも幾らかのチャリティーや募金活動が行われている。




3.06.2011

soft invention



































昨年MOMAで"small scale big change "という展覧会が行われたようだ。
"山椒は小粒でもピピリとからい"しかし内容を読み込むには少し深く飛び込んでみる必要がある。

深く飛び込むには少し時間がいる、そして大抵理解出来ずに終る。
私たちは世界を広たいと思っていても、それには少しコツがいるし簡単な事でもない。

僕が今プロジェクトで当たってる部分もそこだ、アテネは超極端な街だ。
言葉で表す事はむずかしい、だから前期みーっちりとリサーチをして来た。
それでも分かる事、分かれる事と分かれない事がある。僕の世界の際だ。

その中で一つ2つ見つけたかすかな手がかりが少しずつ関係しだして来たのでその整理を少しする。
考える事が多いとき程、ちゃんと記述して明確に整理するべきだ。

上の写真はアテネのPhilopappou Hillというアクロポリスの丘の南隣の丘である。
言うまでもなくアテネのハイライトはアクロポリスだが、このフィロパポはもっと何もなく気持ちのいい散歩道だ。
そしてこの何ともない道の舗装と、その脇にある教会と小さな小屋を設計したギリシャ人の建築家がいる。

Dimitris Pikionis (1887-1968)彼は大きくとも小学校くらいのスケールの建物しか生涯でやっていない。
彼の一番有名で影響力のある作品がこのPhilopappou HillのRehabilitationだ。
戦後アテネのネオクラシカルの歴史的な建物が取り壊される。当時歴史への感覚が軽薄だった事がわかる。
そしてその瓦礫をPikionisはAthensの再建の為の道に使う。自ら採取し、建設の歳も毎日現場に足を運び、レンガのかけらや不整形の石の配置を確かめる。当時の労働力は、精度なんかにおいてあまりいいものではなかったのでという事もある。しかしそれとは別の事がある。Pikionisは自らの感覚を探りながら現地での作業を進める。

かなりセンシティブな事である。しかしそうやってアテネのもう一つの丘は出来た。

僕は感動した。他の生徒の目にはあまり良くうつっていなかった様に見えたが。うちの教授やアシスタントは好んで彼の作品の心地よさを話す。

アテネに大くてちゃんとした施設は似合わない。それは皆がField Tripで感じた事である。
だから私たちのチームは都市の繊維を縫うように、幾らかの可能性をつなげた。

今回の設計はまったく目立つかっこいい方向には行かないと思う。
ただよく考えてみると、僕はそういう事をやった事がない。そういう意味でいつも通り(正確には2年程前までの)の感覚で素直な事を頑張って続けようかと思う。ちゃんと挑戦する部分ももうけつつ。

うちのスタジオには30人ちょっとの生徒がいて、今期は何人かチームでやっていたりするから合計20個くらいのプロジェクトがアテネの中心に置かれるようになる。
小さな変化が連鎖して街が変わって行く様子、それをスタジオで作って行くという雰囲気はとてもいいものだ。

いかにしても戦わなければ行けない。アテネと仲間と教授と歴史とかに。

もう一人アテネの偉人を紹介したい。

Melina Mercouri(1920-1994)
Pikionisとは時代の違う人間だが、元々女優や歌手として活躍した後に政治家となり多くの事をなした。
AthensにはUnification of Archeological Site というプログラムがあって、歴史的な場所の統合とでもいおうか今も動いているアテネの一大事業だ。それを発案したのが彼女で、文化庁大臣みたいなのをつとめていたときだ。
有名人上がりの政治家にあまりいい印象がないのはなんとなくあるけど、うまく使える人もたまにいる。
今のプランと彼女の理想は少し違っているが、間違いなく今後アテネを支えて行ける一石だ。

僕の計画する敷地やプログラムはそれらのExtension Projectでも言うようなものになると思う。
敬意を払って彼女のしようとした事を読み込んでいる。


中東の国の光景のように、道に絨毯を敷いたとしよう。
そこに大きな変化はないが、使い方が生まれ道は少し親しい場所になる。
アテネの盛り場は道と中庭によく見られた。あとは建築のタイポロジー。

クリティカルリージョナリズムでもグローバリーズムでもグローカルでも現せない、土地や人との奇妙な関係が
今は心地いい
自分は世界はこれからどこまで広がって行けるだろうか。





3.04.2011

Un expected space

























冬にした旅行などかなりの事が溜まっているのだが、今日は順を追って忘れそうな事から書こうと思う。

年末に家族が来てリヨンに行ったときの事、街の北東にある"Park de la Tête d'or"が一番歩いてみたかった場所だったのでそっちの方向に歩いた。
その途中で幾らかの建物を見たが、中でも考える事があったのがJean Nouvel"Opéra de Lyon"だった。
完全にノーマークだった。Nouvelの建物の印象はあまり良くなく(何も原因は見当たらない)、興味もあまりなかった。そしてその時考えたものも建物自身とはまた別の事であった。

ヌーヴェルのリヨンのオペラ座である、その言葉の中には何か魅惑的で日本人には持ち得ない類いの光沢が潜んでいる。そしてその言葉のままの期待が僕にはあった。
結果として屋上のドームの部分(雑誌などでよく見る室)や劇場内部には入っていない。しかしドアを開けレセプションの前を通り登って行くぐらいのシミュレーションは出来るものだ。

ここで問題だったのが、僕が予期した空間がそこになかった事だ。

"予期する空間" これはどこから来て何にベースを置いているのだろうか、それが問いだった。

建築の教育?モダンの感覚?エンターテインメントに浸った現代の感覚?
とにかく僕はあるシークエンスや劇場に至るまでの景色•空間の変化を疑似体験しようとしていた。そしてそれがなかった。
それは僕が劇場や主要な室に行かなかった事で、映画でいうクライマックスの時にトイレに行ってしまうような"欠落"が起こったからであろうか?映画にも一定のリズムでピークに至るものと急展開やシュルレアリスティックに場面が用意される事もある。しかし、それのどこにも該当しなかった。

そこには確かに"予期"がある事を僕は感じた。それが僕発信のものなのか、でもそうではないと思った。そういう点でやはり室やシーンの関係にはある"予期"が必要になってくる。
それを語るもしくは想像する姿は映画監督以外の何者でもないだろう。その"予期"が見る範囲を狭めているという見方もある一方で、その"予期"の精度を高めていく読みの作業もこの分野には大事である。
それは先日化学系の事をやられている方と話してそう思った。
実験をする-失敗をする-失敗から学ぶ-原因を知る、だから先生や教授はスゴい。

当たり前に感じる事の理由は、得てして良く分からない。しかしひとたび疑問を持つと、本当に良く分からない。この事に関して少し議論をしてみたい。

こちらにきて色々な事を基本的に考える。これも同じ。

ただこの事件以来、ヌーヴェルの他の建物を見た。それは本当に良かった。ただのトリックではなくて、アイデアとリアリゼがいいバランスを保った強い建築だった。
コペンハーゲンコンサートホールであるが、ああこういう開口ってあるんだに始まり"新しい"を所々に感じた。http://www.flickr.com/photos/maltesenwordpresscom/sets/72157612629842893/

ナントの裁判所は無理だけど、スイスはルツェルンとモラ(どこだ?)にあるから見に行きたいと思う。